スベリヒユ [Folkloristics]
最近では食べられる畑の雑草として認識され始めた植物だ。
これは全国的な話であり,山形では昔から食べられる野草として利用されてきた。
食べ方はいたって簡単なもので,畑から摘んできたものを茹でて辛子醤油をかけるだけだ。
また,茹でて乾燥させたものは冬期間の保存食としても活躍した。
山形ではスベリヒユをヒョウと呼んでおり,正月には「一年間拍子良くいきますように」と縁起を担ぎ乾燥したスベリヒユが食されていた。
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葉山信仰 [Folkloristics]
ここで書いている葉山は,山形県の中央部近く月山の東にある1462mの通称村山葉山のことだ。
山頂近くに奥の院を置く葉山大円院および寒河江市にある慈恩寺との縁が強い山だ。信仰の山としての開山は1000年以上の歴史をもち,その勢力は南東北地方一円であった。
有名な出羽三山(月山,湯殿山,羽黒山)は,古くは鳥海山,月山,羽黒山,葉山を呼んでいたようである。当時の三山は庄内地方では羽黒山を前山とする鳥海山,月山を称し,内陸地方では葉山を前山とする月山,鳥海山を指していたようだ。湯殿山開山後は湯殿山を奥の院とする出羽三山の山であった。その後出羽三山から離れたものの湯殿山を奥の院とする信仰の山に変わりはなく,南東北にみられる葉山碑(石碑)はこの葉山信仰の名残だ。
葉山の山深くに大円院(医王山金剛日寺)があった。終戦まで規模の差はあるものの葉山詣で賑わう寺院であった。終戦後米軍の射爆場が近くに指定され村山市岩野に移転し小さな社を残すだけになっている。今も葉山登山道の岩野口からの途中に大円院跡があるが,大円院跡の看板の他は石碑・小さな祠や僅かな石積みだけがそこに信仰の地があったことを示している。
現在の大円院
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山村探訪 寒河江市畑地区 [Folkloristics]
山村探訪 次年子 [Folkloristics]
旧北村山郡次年子村 大石田町の山村集落だ。
県内でも豪雪地帯にあり,次年子の地名も雪深い地域に由縁するともいわれている。
今は次年子の読みを「じねんご」としているが,地域の古くからの発音は「づ(じ)ねご」だった。いまでもある程度の年齢の人は古くからの発音で呼んでいる。余談になるが集落を走る県道36号線は「県道 しんじょうじねごむらやま 線」となっている。
半世紀ほど前までは冬期間の交通が遮断されることも多かったが,今は県道の整備で通年をとおして車両の通行が可能になった。山形県内にいくつかある蕎麦街道の一つ大石田蕎麦街道の一角をなす集落である。
山村ではあるが地理的に交通の要所でもあり戦国時代の事件の記録なども残っており興味深いところだ。
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左沢文化的景観 [Folkloristics]
山村探訪 田麦俣 [Folkloristics]
旧東田川郡田麦俣村 鶴岡市の山村集落だ。
月山の南面を鶴岡市から湯殿山を経由して西村山郡に至る六十里越え街道の麓に当たるところだ。
古くは月山,湯殿山信仰の人々の往来や日本海側と内陸結ぶルートを支えた集落である。近代になり車両の通行が可能な新六十里越え街道が整備され道路は集落を通るものの素通りすることが多くなった。現在では六十里越え街道から離れた自動車専用道路が開通し往来の中から切りはなされてしまった。
田麦俣の特徴的な萱葺き屋根の住宅は産業や生活環境の変化から僅かに保存されているだけだ。鶴岡市の致道博物館にはここから移設された一棟が保存されている。
町並みは変容したものの月山湯殿山信仰の地であり興味深い歴史がここには多い。
旧六十里街道は地元有志と行政により整備されているので時代を遡ってみるのもおもしろいだろう。
BESSA R3A COLOR SKOPAR 35mm F2.5 P II RDP
追分石 [Folkloristics]
六十里越え街道は,月山の南面を横切る山形の内陸部と海沿いを結ぶ古い道だ。物資の移動のみならず出羽三山へ続く道でもあり古くから往来する人が多かった。
また,江戸時代を挟んで戦国時代や戊辰戦争では戦略の拠点ともなった場所でもある。
人の往来から荷馬車の往来そして車による高速往来につれルートの付け替えがおこなわれてきた。
六十里越え街道の古道のうち湯殿山周辺の山岳道路は地域住民の努力で綺麗な散策路として整備されている。しかし,その他の区間は新道に吸収されたりダム湖の底になったりして当時の面影を見ることができなくなった。
写真の追い分け石は,寒河江ダム(月山湖)の畔にかろうじて水没を逃れて建っていた。寒河江市から月山に向かうとここで朝日町から伸びた道と合流する。石には左大井沢,右湯殿山・庄内の文字が刻まれている。
西川町の観光案内にはこの石の場所が示してあったので訪れてみたが,それらしい場所を探してみたが無駄な藪こぎに終わった。諦めて引き返したところR112沿いの古道入口にこの石を見つけた。近くにはダムの浸食によりこの地に移動したという説明書きがあった。歴史の証明的な石ではあるが場所が変わったことで六十里越え街道の道しるべではなくなったのが残念だ。
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